受験と進学に悩んだ思い出の話


2月になった。

2月から連想されるイベントの中には、「受験」というものがある。

今回は、私の「受験」に関する記憶や思い出を書こうと思う。

私は、公立中学校から、公立高校へ進学し、高校からは私立の文系大学へ進学した。

小学生のとき、私と同じクラスの約20人のうち4人は、私立中学へ進学した。

共通するのは、4人とも裕福な家庭の子供たちだった。今思い出すと、そう思う。

私立中学へ行った4人のうち、親が社長(地元企業の経営者)という同級生は2人。

いずれも、兄弟姉妹がいた。4人中、兄や姉が2人いたのが3人。姉が1人いたのが1人。

90年代の当時としては、兄弟姉妹が複数人数いるのは普通のことだったので、それほど意識はしていなかった。2019年の今、考えると複数人数の子育ては金銭的にも大変だろうと思う。

ただ、私が小学生だった当時、「ああ、彼らは私立の中学校へ行くのだな。ふーん。頑張れ。」と普通に思っていた。仲良しの友人はいたが、別に寂しいとか、そういうのは全然なかった。

さて、次は中学から高校へ行った話である。

当時、私が通学していた公立のT中学校は、一言でいうと「教育困難校」寸前の学校だった。

99年~01年のT中の同年代は、授業中の生徒同士のおしゃべりは酷いわ、給食をぐしゃぐしゃにして遊ぶバカはいるわ、授業中に暴力を振るう大バカな男子生徒がいるわ、ゲームボーイカラーを持ってくる生徒はいるわ、テニス部の一部女子がおとなしい女子達を堂々と侮辱するわで・・・悪い事例にキリがなくとにかく荒れ放題だった。

また、1つ~2つ上の先輩の年代は、まともな先輩と不良の先輩が極端だった。

まともな先輩達は、自分たちで自主的に学校行事の運営を行なった。受け身な生徒が多い中、自主的にやる能力と意識レベルが、まともな先輩達は凄く高かった。

「不良」と言われていた先輩の中には恐喝犯がいたらしい。「パーティ券」を生徒達に無理やり売りつけ金銭をむしり・・・というか、「恐喝」をしては、教師達に制裁を受けていた・・・と。

そして、犯罪行為を中学生にさせるような外部の組織と、教師達や警察が戦っていたらしい。

私と同級生の代は、そのような外部の悪人や悪事に加担した先輩の魔の手から、先生や警察官によって守られ、悪事の連鎖を断ち切った代だったと、卒業時に学年主任の先生から聞いた。

まぁ、私や同級生が悪事に巻き込まれなかったのは良いが、だいぶ荒れ放題だったけどね。

そんな中、当時の私は生活態度と成績が一定の基準をクリアしたので「推薦入試」を受けることができた。

私は一刻も早く、このヤバい中学校を卒業して高校へ進学したかったので、必死だった。

私が目指したのは、東京都内でトップクラスの工業系の高校。最新の機械設備があった。

その高校の「推薦入試」は面接試験だった。私は母と、事前に高校の見学会に参加した。

そして、ウォータージェットの実演や協同制作で作られた金属製の神輿などを拝見した。

私の成績と、高校の学科の倍率から、当時、一番倍率の低くて入りやすい学科を選んだ。

機械を専門にした学科だった。私としては、アクセサリー作りやCG制作の学科に興味があったが、機械工作は色々と応用が効く予感がしたのでそこを選んだ。

私は母と毎日、面接の練習をした。いつも、夜の20時前後に「休憩」として、近所のスーパー「セイフー」へ母と一緒に行っていた。「セイフー」はダイエー系列の小売店だった。

2001年の当時、「ダイエーホークス」という野球チームが存在した。「いざゆ~け~、無敵~の~若鷹軍団~♪」というサビの応援歌だった。

その応援歌をスーパーの店内BGMに聴きつつ、半額になった惣菜やPB商品の安いチョコなどを買って帰宅していた。

そして、一般入試対策としてよく勉強していたのは、国語と英語だった。自分が得意な科目だった。

数学は、まるでできなかったので、とにかく自分の得意な科目で確実に点を取れるように勉強していた。

推薦入試の結果は、「合格」だった。以下、某工業高校の推薦入試面接で聞かれた質問集。

Q.お名前を教えてください。

Q.今日はどのようにしてウチの高校へ来ましたか?経路を教えてください。

Q.趣味はなんですか?

Q.ウチの学科に入ったら、どういう作品を作ってみたいですか?

Q.文化祭または見学会には来ましたか?どのようなものが印象的でしたか?その理由は?

Q.最近の気になったニュースについて、あなたの思ったことや考えたことを教えて下さい。

Q.あなたのアピールポイントを教えて下さい。

自分が覚えている質問は以上のような内容だった。

ちゃんと入学して勉学に励むつもりならば、答えやすい質問ばかりだと思う。

私は、「金属や樹脂を使って、曲線的な作品を作りたい!」と答えた覚えがある。

文化祭または見学会で印象的だったのは、「ウォータージェット」だった。

また、自分のアピールポイントは健康な体だと答えた。そのような記憶である。

実際に、私は高3の時にウォータージェットを使って真鍮製の軍配を作ったり、アクリル板を材料に睡蓮の葉っぱ型のスライド式鏡をレーザービームのカッターで作った。

それらの作品は、高校の地下倉庫で同級生のみんなの作品と一緒に眠っている。

面接官を務めた3人の先生達は、高校入学後にお世話になった先生達だった。

3人中1人は私の入学前に転任し、残りの2人は高校2年の時に転任して行ってしまったが。

少なくとも、高2の時に居なくなった痩せ体型の英語の先生にはお世話になったと思う。

高校時代の話は、話が長くなるのでまた別の機会に日記にまとめるつもりだ。

最後に、大学入試の話を書く。大学入試は入試の中でも一番きつかったように感じる。

まず、高3の私は進路に迷いまくっていた。

2004年当時は、日本はどんな感じだったか?ウィキペディアに書かれている主な出来事としては、アテネ五輪、与党は自民党で小泉政権だった、振り込め詐欺の多発、政治家の年金未納問題、イラク派兵、東京メトロ発足、北朝鮮拉致被害者の家族5人が帰国、集中豪雨、猛暑、台風、新潟中越地震、新紙幣(福沢諭吉、樋口一葉、野口英世)が発行された、楽天ゴールデンイーグルスが新規参入球団として登場、ニンテンドーDSが登場、ダイエーホークスがソフトバンクホークスへ変わった、スマトラ島沖地震で大津波が起きた。など、色々あった。

私の身近なところとしては、テレビではお笑い番組がよく放送されていたと思う。04年の頃は、純愛モノが流行しており、「世界の中心で愛を叫ぶ」や「オレンジデイズ」や「冬のソナタ」が流行していた。私の周りではドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」や「オレンジデイズ」が好きだという友達が3~4人くらいいたと思う。それぞれで主演を演じた04年ごろの綾瀬はるかや柴咲コウは今とは異なる可愛さがあったし、純愛モノは普遍的な魅力と話の分かりやすさがあったので、それなりに流行していた。

世間では「ヨン様フィーバー」などと言われる現象があった。それは、韓流ドラマ「冬のソナタ」で主役を演じたペ・ヨンジュンに中高年のおばちゃん達が夢中になっていた現象だった。その様子がテレビによく映っていた。

さて、お気づきだろうと思うが、当時も先行きは不透明だったし、景気が良くなったという実感はなかった。世界情勢としては2003年から2004年にかけて景気回復したらしいのだが、日本は当時の雰囲気的には景気が鈍化か横ばいって感じだった。

※2004年の内閣府政策統括官室の日本経済に関するレポートを読むと、2004年当時の「景気の動向」の概要が記録されているので、時間のある方はぜひネットで検索して見て頂きたい。

私は、とにかく進路に迷っていた。

自分の本当にやりたいことは漫画やイラストを描くことだった。

専門学校または大学へ行って漫画家を目指すことを考えた。そこで、学校見学をしていた。

自分には、高校を出てすぐに会社で働くという覚悟はなかった。

高校の普通科目では、国語、英語、日本史と世界史を勉強した。高2と高3の選択科目では、英語と日本史を選んだ。土曜日には高校が行なっているデッサン講習に参加した。

第一志望の大学は、日本大学の芸術学部だった。その大学の学部には、漫画を学問として学べる授業が存在した。私はその授業を受けたいがために日大を受験した。

そこでは、デッサンの実技試験があった。私はデッサンが苦手だった。結果、そこは落ちた。

落ちたショックで頭が真っ白になり、進路相談室にて、機械工作のN先生に相談した。

「自分は今、非常に迷っています。第一志望の大学に落ちました。就職するには、大人になる覚悟も一般常識も無いし、漫画の専門学校に入って、将来的に飯を食っていけるとは思えません。それでも、作ったり描いたりする仕事には将来的に就きたいので、知識を蓄えたいのですが、どうしたものでしょうか。できれば、浪人やニートにはなりたくないんです。」という相談をした。

その結果、4年制大学を受験することに決めた。

N先生曰く、「君はまだ、勉強することに未練があるようだ。それならば、今からでも間に合うから4年制の大学を受験しなさい。そうすれば、たくさん勉強できるし色々な学生や教授と会って、人生経験を積んだ方がいい。」とのことだった。

私は、大急ぎで願書を取り寄せて、私立大学のあちこちに申し込みまくった。学部は社会科学系を選んで受験した。

ちなみに、N先生の経歴としては昭和の時代に高校を卒業して数年は工場に勤務。10代の頃の先生は金型屋になりたかったらしい。それから、工場の上司に進学をすすめられて大学へ行ったのだとか。また、工業高校の先生になる以前は、技術センターの職員として勤務していたとのことだった。

先生の助言としては、他には「人の未知のもの、あまり知られていない分野のものをやると、感謝されるし、成功するよ。」というものもあった。

周りの先生たちが、「N先生、これは分からないし難しいし無理だよ。」という分野の技術ばかりを、わかりやすく翻訳して生徒に教えていた。

例えば、2004年ごろだと、パソコンの3DーCADと、それのデータをもとにした加工など。

機械工作の先生たちの中でも、N先生は一番年齢的に年老いていたが、柔軟性があり、最新技術の知識のアップデートは凄かった。スターウォーズのマスターヨーダみたいだった。

私は友人YとともにN先生の3DーCAD講習で、3DーCADを使って立体的な落書きをして遊んでいた。N先生の教えるコツとしては、「生徒に技術で遊ばせること。」だった。

生徒たちに、材料を使わせて遊ばせることで失敗を経験させたり、作り方を自分で知るから技術が身につくというのだ。

状況にもよるが、これは理に適っている。

話が逸れたが、とにかく私は筆記試験に合格するために、国語、英語、歴史を勉強した。

塾や予備校には行かなかった。塾は過去に失敗したことがあるので拒否感があった。

私は、大学入試の過去問を、選択科目の先生からもらって解きまくっていた。

やがて、センター試験、一般入試の日がやってきた。

センター試験は、寒い1月中旬に行われた。上野駅と鶯谷駅の中間にある高校が会場だった。

同じクラスの受験仲間と一緒に受けに行ったのを覚えている。私の高校は私服通学OKの高校だったので、あえて、制服っぽい服装で行った。

センター試験は、正直、国語以外手応えはなかった。結果、落ちた。次が、一般入試だった。

一番初めに受験したのは大東文化大学。2月の初めに受けた。

国語と英語のペーパーテスト。私は手応えがあった。特に英語は、自信を持って解答できた。

結果、合格。職員室にいた担任のS先生にお願いして、パソコン画面のネット上の合格発表を見た。そこに自分の受験番号があった。何回も確認してあったので、合格だった。

私は、おそらくそれで自分の運を使い果たしたのだと思う。それ以降、受験した大学はみんな落ちてしまった。

多分、後にも先にもこんなに勉強したのはないと思った。高校は、無事に卒業し、友達とは今も交流がある。

大学受験や進学には、世間の人は色々と、思うところがあるかもしれない。

私は、受験を経て大学に進学してよかった。

あとは、自分として個人的に気になっているのは、「高校→大学→就職」という流ればかりが世間一般的な人生のコースだと、思われやすい風潮。

特に、リクナビなどの就活サイトや世間一般を見てて思う。

子供達には、それが全てだと思って欲しくない!

「社会人→高校または大学卒業」や「中退して就職または独立」という人も一定数いるからだ。

ただし、高校または大学をキチンと「卒業」することは社会的に信用を勝ち取ることができるので、就職の幅が広がると思っていい。「卒業」って本当に大事。

疑う人は、試しに就活サイトやハローワークなどで検索したり、「中退して苦労した人」の話を探してみて欲しい。

また、ネット上には「大学なんか行く価値ない!」とか「大学辞めて起業しろ!」という発言をするインフルエンサーがいるが、彼らの言葉を鵜呑みにしてはいけない。

もう一度言う。「中退」すると、人生はハードモードになるぞ。安易に中退を選んではいけない。中退するならば「起業の確実な勝算の見込み」があり、「起業の事業計画がキチンとできている」ならば、やればいい。

また、日本の大学や研究機関に価値を見出せないならば、海外の大学へ留学することも考慮するといい。

大事なのは、「自分が進学先で何をしたいか?」をハッキリさせること。進学がゴールではない。勉学、友達作り、部活、資格・・・とにかく「目的」を持って進学した方が、身になる。

これからの世界の子供達がどうなるのかはやや気になるが、子供達が自分の夢を諦めずやりたい仕事に就いて活躍しやすい世の中にしていきたいものである。

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