3.11東日本大震災の記憶の日記

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こんにちは。こなみです。

2011年3月11日のことを忘れないように、自分が思い出せるうちに記録しておこうと思います。以下、私の記憶です。

2011年3月11日。その日は金曜日でした。

私は、その当時、東京で勤務していた会社にて催事の準備をしていました。

その催事とは、池袋駅の地下で4月に開催される予定の1ヶ月限定ストア。商品はファンシーグッズ。

それが私の担当していた催事でした。

私は、社内の休憩スペースでひたすらラベラーと言う道具を使って値札シールを付けていた。

販売するものは、可愛いパンダ型やクマ型の弁当箱やミニーマウスのお玉や、在庫処分の激安水筒などです。

私は単調な作業と春の陽光の暖かさで眠くなり、ウトウトしていました。

午後14時から15時の間だったと思います。

最初、カタカタカタ・・・と地震が起きて「なんだ、地震か。」と思いました。

すると、数分後、グラリと床が横に揺れました。またすぐにグラグラと大きく建物全体が横に揺れました。

その揺れで社内の蛍光灯がフッと消えた瞬間、社内は騒然としました。

特に事務のY主任は怯えていました。

その日はたまたま営業マンが社内にたくさんいました。

N係長が急いでテレビをつけると、そこにはニュース速報で災害の様子が映し出されていました。

それは、黒いドロドロの液体が広大な田んぼを一気に覆い尽くしている様子でした。

津波警報がテレビに次々と出て、「津波の高さ10m」と表示されていました。

「1mの間違いでは?」とか「見間違いか?」と、皆で口々に言いました。

10mの海の塊が襲って来るとは、とても信じられませんでした。N係長は茫然としていました。

当時、幕張メッセで開催中の「ドラッグストアショー」という展示会がありました。

社内にいたF課長が、そこに行っている本社の営業部長達の安否を確認した上で、

東京営業所の社員全員で近隣の避難場所である公園に一時的に避難をしました。

公園には他にも近隣の企業の社員達や地元住民らしき人がいました。

30分ほど待機しました。寒かったです。待っている間、特に何も起きなかったです。

F課長は、社員全員を連れて社内に戻りました。

そして、社員たちに家族の安否確認をするように指示し、女子社員から随時帰宅させました。

私の個人の携帯電話は全然繋がりません。メールの送信はできた。なので母にメールを送りました。

しかし、当時の私の母は携帯電話のメールを全く使えなかったのです。

それも、こんな時に限って、母は大田区にある母方の実家に行っている状態でした。母方の祖母の面倒を見に行っていたのです。

母と連絡がつかないことは不安でしたが、「母方の家は頑丈なので大丈夫だ」と信じて、私は社内で帰宅準備を始めました。

ちなみに、私の父は基本的に鉄筋コンクリート製の家で自営業をしているので、無事だという確信がありました。

私の自宅は、会社から3km圏内に入る。とにかく家が近い社員だったので、会社の自転車を借りて帰路につきました。

時刻は午後17時。3月なので、夕方でも明るかったです。

私は、自転車を走らせながら、道路の様子を見ていました。

車が渋滞している状態でした。

そして、歩行者用道路は歩いて帰宅する会社員でいっぱいでした。

「疎開って、こういうことかな。」何気なく、そんなことを私は思いました。

私は地元スーパー「イイダ」に寄って、緊急用にと「猫砂トイレ」と2Lペットボトルの水を買って帰宅しました。

まず、父は無事でした。

また、私の住むフロアの部屋は、雑貨や道具がひっくり返っていました。

と、言っても背の低い家具だらけの部屋なので、倒れたものはなかったです。キャスター付きの家具があっちこっちコロコロ移動して転がっていました。

主に洗面台や風呂場の水がぶちまけられて床がビチャビチャになり、道具がひっくり返って、床や洗面台に散らばっている状態でした。

私は、片付けるのは後にしようと思いました。

その日は、父と夕飯を食べていました。余震があるたびに携帯電話から「ギュイン!ギュイン!ギュイン!」という「緊急地震警報」の激しい警告音が鳴りました。

あの音はとても不安な気分になります。

また、デカい余震がいつ東京に来るか全くわからない状況なので、父のいるフロアで布団を借りて寝ました。

翌朝、土曜日でした。私は朝8時くらいに起床。母はいつのまにか帰宅していました。本当に無事で良かったです。

私は本来の予定では、ドラッグストアショーで接客する予定でした。

「地震だし、展示会も中止になったと昨日聞いている。どうせ休みだし、来週に会場の片付けだろう。」

私はそう思っていたのです。実際、11日の時点で「イベントは中止」になりましたし。

すると、会社の携帯電話がかかってきました。

上司T「おい、こなみ!何やってんだ!早く来なさい!」

こなみ「え!?今日休みじゃないんですか?中止になりましたよね?」

上司T「後片付けだよ!(主催者側が誰もやってくれないから)俺たちでやるしかないんだよ!」

こなみ「えーっ!?」

上司T「俺は今、幕張メッセにいるからな!先に片付けているから早く来なさい!」

こなみ「休日出勤の手当て、出ますよね!?」

上司T「出るよ!!!」

上司Tとは、当時の上司だったT所長です。ジャムおじさんに似た中高年のおじさんでした。

と、いうことで私は行きました。休日出勤の賃金はちゃんと出ました。

仕方なく「すみません!すぐ行きます!」と言ってすぐに行きました。

2019年の現在から考えると、信じられませんよね?当時の私、マジで頑張ったと思います。

で、とにかく自転車でまず会社に向かい、自転車を会社に戻して徒歩でJR浅草橋駅に向かいました。

私は、駅の様子を見て目を疑いました。

本来ならば、土曜日の朝の電車はガラガラで空いているはずです。

当時は混んでいた上に、下り線が満員状態でした。つまり、帰れなかった会社員達が朝に帰っている状態です。

仕方がないので、その電車に乗って海浜幕張駅に行きました。

幕張メッセ付近の道は、ひび割れた舗装と不自然にデコボコした道路のブロックや破損したタイルだらけで、隙間から泥がはみ出ていました。

どうやら、幕張や浦安では液状化現象が起きていたようです。

海が近いので、磯の匂いもしました。

私は、幕張メッセに入り、ドラッグストアショーの会場にて上司のT所長と合流し、片付けをしました。

早急に商品を段ボール箱に詰め込み、運送会社を呼んで、運んでもらいました。

こんな緊急事態でも、来てもらえたので運送会社の従業員には本当に頭が下がります。

私とT所長は、たまたま営業していた近場のレストランで昼食を摂って、解散しました。

よく無事に終わったなと思います。

私は電車で帰宅しました。

帰宅後、母から色々と事情を聞きました。

まず、11日は母は大急ぎで私の伯父の運転で品川駅まで行こうとしたとのことでした。

伯父の車は渋滞で全く動けません。

そして、本来ならば遅くても20分くらいで行けるはずの品川に、数時間かけて到着したとのことです。

しかし、駅は人が溢れかえっていて、入れません。そういったとんでもない状況で帰路についたとのことでした。

私は、これを機にメールを覚えてもらおうと思い、大急ぎで「初心者向け!メールのアイウエオ表記と打ち方」を紙に書いて母に渡しました。

それ以来、母はメールを使いこなしています。

当時、私はSNSでmixiとtwitterを主にやっていました。

特にmixiにどっぷりハマって浸かっていたと思います。また、最新情報を知るのにtwitterをよく使っていました。

テレビは東北太平洋沖地震のニュースを連日放送し、CMはAC公共広告機構によるものが流され、「ポポポポーン」とか「こだまでしょうか」といったものが頻繁にテレビで流されていました。

twitterでは悪質なデマが流されることもしばしばあり、SNSは便利なのと同時に危ない道具だと思いました。

その後、買いだめする人が続出して、コンビニやスーパーからお菓子や乾電池やラジオが消えました。

原子力発電所が震災の被害を受けたので、東日本が電力不足の危機に陥り、「計画停電」なるものが政府によって行われました。

ネットでは、「ヤシマ作戦」と称して節電をみんなで呼びかける動きもありました。

東京は大地震が起こる前日までは夜中も明るかったのですが、「計画停電」や「節電」に伴い、小売店の営業時間が短縮されたり、

渋谷や新宿といった繁華街の電飾が一時的に消されたりして、すっかり暗くなってしまいました。

状況が明らかになっていくにつれて、この地震が日本に甚大な被害をもたらしたことが判明します。

私の当時いた会社は、本社が関西地方にありました。社長は様子を見るため、関西からわざわざ東京に来た日がありました。

社長は相当ショックだったようです。連日、朝礼で震災後の東京の様子が語られました。

地震のあった翌週は、東北地方や茨城県や長野県の得意先の安否確認と、手伝いの有無の確認でした。幸い、顧客はみな無事でした。

やがて、本社のある関西地方にまで自粛ムードが漂い、日本全国が暗い状態に沈みました。

私個人としては、関西地方にまで自粛して欲しくはなかったです。

彼らまで暗くなることはありません。

むしろ、今まで通り明るくパワフルでいて欲しかったですね。私はそう思いました。

日本の歌手たちの一部はチャリティを募り、震災に売上金を全て寄付する行動を取っていました。

また、友好的な国から寄付金を得たりして日本はあっちこっちから助けられていました。

私が担当していた催事は、本来ならば4月に開催される予定でしたが、6月に延期になりました。

本当に、とんでもない災害だったと思います。

私は、この災害以来、定期的に自宅に用意した避難袋の中身をチェックしています。

2019年現在、防災系の本で参考になるのは「東京防災」と「自衛隊防災BOOK」です。

この2冊は防災知識を深めるのに役に立ちます。

それすらも面倒臭いなという人は、まずはスマホ用のモバイルバッテリーを買うか、

アメやカロリーメイトなどの食料やトイレットペーパーの備蓄から始めると良いかもしれません。

この震災も、あと2年で10年を迎えてしまうので、記憶が風化しないうちに記録しておこうと思いました。

この地震の記憶は、私はいずれ会う未来の自分の子孫にも語り続けようと思いました。

ご覧いただき、ありがとうございました。

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