【小説】未来の孫 1話


西暦2061年、7月某日、新23区、向島地区。

水平線上から太陽が昇ると、私は自然と目を覚ました。

部屋の窓をガラッと開けると、蒸し暑い風がフワッと通り抜け、

窓際にある青い江戸切子のガラス風鈴がチリーンと鳴った。

目の前には見渡す限り広大な海が鏡のように広がり、

夏の太陽が、水面にきらめいて白くまぶしい。

半透明で静かにたゆたう水の下には、沈んだ住宅街が黒く揺らめく。

灰色の骨のような巨大電波塔・スカイツリーが

今日も水面からニョッキリ生えている。

陽炎で、塔の先端と周りの空気がゆらゆら揺れる。

自宅周辺の水面には、古い時代の鉄筋コンクリートの建物が

島のように点在している。

いずれの建物も皆ボロボロでひび割れ、所々で鉄骨や針金が飛び出している。

どの建物も常に下半分が水に沈んでいる。

耐久工事をしていない所はいつ崩れてもおかしくない。

そして、今日もこの街の水面には、

黄緑色の箱型をした都営水上バスが自動運転でスイスイ走り、

それは5分に1本のペースでバス停に停車し、

通勤する人々を30人くらい乗せて走っていく。

空には輸送ドローンやエアーカブが、ブンブンと羽音を立てて飛び、

水平線上に枝のように伸びる空中高速道路「向島6番線」には、

21世紀初頭にも走っていたような、

硬く頑丈な四角い箱型の業務用エアカー「トラック型」や、

「ワゴン型」が、朝からせわしなく規則的に移動しているのがよく見える。

何もそんなに急がなくても良いのに。

大人って大変なんだろうな。と、私は思う。

私が今住んでいる新23区の向島地区は、14年前の震災で水没した地域だ。

それは、私が2歳の時。その時のことを私は全然覚えていない。

地震のあった日、私は祖父母と一緒に秩父へ旅行していたらしい。

たまたまその日、私の両親には凄く大事な仕事「研究発表会」があった。

おじいちゃんが言うには、私の両親は主に輸送技術を研究していて、

動物型ロボットの開発においても優秀な技術者だったそうだ。

当時、私と祖父母2人は旅行中に

「わらじカツ店カジカ」店内で昼食中に地震に遭ったらしい。

2人は埼玉のご当地グルメ「わらじカツ」が好物で、

特にじいちゃんはわらじカツ定食を食べた後、

電気キセルを吸うのが何より好きだったそうだ。

当時2歳の私も小さく切ってもらったカツを

口いっぱいに頬張っていたと祖父母から聞いた。

秩父も激しく揺れたものの、古来から地盤が強い地域ということもあり、

結果的に3人とも命が助かったのだ。

まぁ、私は全然覚えていないんだけどね!

私は、仏壇の上に置いてある写真立てをチラッと見た。

昔の家族写真だ。両親と、赤ちゃんの頃の私が写っている。

私の両親は、写真でしか見たことがない。

震災以来、行方不明のまま帰ってこない。

祖父母が言うには、私の両親は身体の一部すらも見つからないまま、

警察による行方不明者の捜索が打ち切られて、

震災から10年以上経ってしまったのだ。

そのため、近所のおばちゃんからは、

「ウチも大変だったけど、エマちゃん家も大変ねぇ。」

と、しょっちゅう言われる。

向島地区は、震災の死者と行方不明者がとにかく多い。

水害や倒壊被害のほか、

医療関係者の不足や停電で助からなかった人が何人もいたらしい。

この辺に住んでいたほとんどの人は、

震災後に埼玉や八王子方面へ引っ越したという。

けど、中には震災で家や財産を失ってもなお、

「この町が好き。」という人もいる。

それは、政府が用意した船型の仮設住宅に住んでいる人たち。

近所のおばちゃんもその一人だ。

向島地区では、屋形船型の仮設住宅を未だによく見かける。

震災から何年経っても、政府が人工島「新23区」の建造を徐々に始めても、

私は内心、モヤモヤしたままだし、祖父母は何だか割り切れていない感じ。

もし、お父さんとお母さんに会えるのならば絶対に会ってみたい。

たとえ、それがどんな「結果」であっても。

おばあちゃんの持つ液晶タブレットに配信されるニュースでは、

『震災以前の東京23区は14年前の東京湾大震災で、

ほぼ90%の地域が東京湾の津波と荒川放水路と隅田川の堤防決壊によって、

水没しました。』と、報道されている。

旧23区で完全に水没したのは、

江戸川区・江東区・墨田区・台東区・葛飾区・荒川区だ。

2061年のここは一面の水面で、区境も道も川もわからないけれど、

昔の墨田区にはちゃんとした陸地があり、道路は平らに舗装されており、

公園で遊んだりスポーツを楽しむ人もいたという。

電柱や信号機があちこちあり、車が地上の道路を走り、電車が線路を進み、

地面の下には地下鉄というものが複雑に入り組んで、何本も走っていたと聞く。

古い地図の画像を見るとよくわかる。陸と海の面積が今とまるで違う。

当時の街には鉄筋コンクリートで出来た背の高い建物や集合住宅があり、

その谷間に木造の民家や小さな工場などが密集していたらしい。

私は、その風景を歴史の本や図書館にある記録映像で見たことがある。

とにかく地形が一変するほどの大地震だったのは事実だ。

新23区は震災以降ずっと工事が続いていて、常に新しい街に変化している。

私の住んでいる家は、

おばあちゃんの管理する「トキワマンション」を改造したもの。

鉄筋コンクリート製の10階建で、運よく震災時に残った建物の一つ。

震災後、建物の土台は水中でも耐えうるように

政府の建築重機ロボットによって行われた。

政府の方針により、家屋が半分でも残っている住民は

基本的にその家に住むことになっている。

このマンションは建物の下半分である1階から5階までが水没し、

6階から屋上までの上半分がニョッキリと水面に出ている状態だ。

ばあちゃんが言うには、マンション建設時の借金は完済しているものの、

震災後は入居者がみんな出て行ってしまい、廃業したそうだ。

でも、うちの祖父母は全くめげなかった。

おじいちゃんは、自分の仕事仲間に

「作業スペース」としてレンタルしてお金を稼いでるし、

おばあちゃんは、ここを時々「近所の寄合所」として

近所の人から使用料を取って儲けている。

もし、私だったら多分無理だと思うし、精神的に凹む。

うちの祖父母は、精神的に逞しい人たちだといつも思う。

今、ここの最上階には私と祖父母と、

本物の柴犬そっくりの「ロボ犬」ポチが住んでいる。

ちなみに屋上への出入り口には鍵がかけられており、

私と家族二人しか鍵を持っていない。

そのため、マンションのレンタルスペースや

寄合所に来た利用者は全く入れない。

屋上には庭と犬小屋と物置がある。

当然、安全のため周りは転落防止の柵で囲われている。

「エマちゃん、ご飯だよ~。」居間の方から、

小浪(こなみ)おばあちゃんの声が聞こえる。

「小浪ばあちゃん?今行くねー!」

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